不連続線線に異状なし 黒川想介 (3)

2014年8月6日

日本の物づくりはどこに行ったのか、物づくり日本の復活、というフレーズがそこかしこに飛び交う日本の社会では、物づくりが国の威信にかかわるということであろう。

幕末に、伊予の国の職人が宇和島の殿様にペリーの黒船と同じものをつくれと言われ、西洋の指導もなく苦労の末に作ってしまったという物づくり力は、日本人に脈々と流れているものなのだろう。また80年代にはジャパンアズナンバーワンという本が世界を駆け巡り、日本人が誇りに感じたのは、優れた物づくり力を日本人は持っていると確認したからであろう。

西洋は物を生み出す力に長じているが、生み出された物を工夫に工夫を重ねて優れた物として作ってしまうのが日本である。同じ物をつくってしまう新興国はあるが、そこにさらに工夫を重ねて物づくりをしてしまうのは日本の特徴だ。その点で一歩も二歩も長じているという自負を持っていい。

この十数年、日本は新興国に抜かれてしまうのでは、という思いを持った人が多かった。テレビでの報道をはじめとして各メディアの報道がそれを助けたが、実態は西洋が物を生み出す力に長じているように、日本は工夫する力に長じていたのであって他国に負けない物づくりのお家芸は健在だ。いずれ新興国が技術力をつけてくるのも事実だ。日本が物づくり力に一時的にも自信を失いかけたのは、日本人の中に眠っている工夫するということの重大さを忘れかけたからである。

人間はミスをする。だから手順やマニュアルをきっちり作るという発想が西洋からやってきた。それにも工夫を凝らして、現場の意見を重視する日本流マニュアルをつくった。現場に合ったマニュアル通りにきちんと実行する力にも長じた国である。工夫ときちんと実行する力があるから、西洋で生み出された事物を優れたものに変えてつくってきた。しかし職人根性が根底にあるが故に一つの技術を昇華してしまう傾向もまたあって、チャンピオンスペックできちんとつくってしまうのも日本だ。そこにつけいるスキを新興国に見せてしまった。それなら、なぜ工夫を重ねてきたのかという原点に立ち返れば、いいことになる。どのような工夫を重ねてきたのかと言えば、使う人の立場に立って工夫を重ねたことが思い出される。

今や市場は様々である。市場は多様化している。『狙った市場はどこか』を明確にしないで製品をつくろうとすれば、どうしてもいいこと尽くめのチャンピオンスペックになる。様々な市場のある中で使う人の立場に立って物づくりをするには、複雑になった市場をセグメントして、セグメントされたどの市場を狙うのかを定めることだ。工夫した新製品をつくる時に、良い物をつくりたいという性には勝てない。それでいいのだが、良い物とは市場が要求している物だ。

だから、ハイテクだ、ローテクだ、前より機能が落ちる、立派すぎる、コストが合う、合わないという前に、工夫してぎりぎり市場に合わせることが良い物の基準なのだ。良い物の基準をこれまで日本の事情に合わせてつくってしまい、グローバル的には大事なことになると気づいたばかりだ。特に、産業向け製品は良い物の基準をセグメントされた市場に合わせることに疎くなっている。

製品の目新しさが市場にとって、良い製品だと思っている技術者も多数いる。営業は情報屋であるから、ユーザーの現場では大は小を兼ねない時代に入っていることを感じ取った上で、市場に合った情報を顧客に提供する役目を持つ。営業と物づくり技術がしっかり組めば、工夫ときちんとした実行力をお家芸とする日本は安泰である。(つづく)
(次回は8月20日付掲載)